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 株式会社 IBLC

【041】化学企業の研究開発におけるIT活用

【041】化学企業の研究開発におけるIT活用

三戸 邦郎

1.はじめに
近年ITの発展は目覚ましく、私たちの社会生活における時間、空間に大きな変化をもたらしており、IoT及びビッグデータ、AIといった技術革新が世の中の仕組みを大きく変える第4次産業革命と言われる流れが起こっている。特に、昨今のAIに対する期待感は大きく増すばかりで、各企業はこの技術を担うデジタル人材獲得に必死である。報道[1]によると、初任給を2割増に優遇する会社も出てきており、また、大学側でもニーズに応えるデジタル人材育成[2,3]が盛んになっている。

筆者が現役時代に所属していた化学業界においても、これらの技術への取組みが進められてはいるものの、他の産業界に比べ、その動きは大きいとは言い難いように感じている。今後予想を超えるスピードで発展し続けて行くであろうITが、化学産業の研究開発を大きく支える存在になって行くことを期待して、その現状と課題について、拙い経験を踏まえた私見を述べさせて頂きます。

既に一線を退いた筆者が計算機に関わったのは、入社数年目の1980年代前半、当時は計算機の性能が大きく進展し始めた時代で、国内でも富士通や日立が1982年にベクトル型スーパーコンピュータを開発し、パーソナルコンピュータPC-9800が1982年、Macintoshが1984年に発売されるなどハード面も大きく変わり始めた時代でした。当時担当していた新規医薬品の開発を効率化する目的で、構造活性相関解析や計算化学シミュレーション等を用いた薬物設計に取組んだことがきっかけで、その後、計算科学、情報科学といった研究開発を支える基盤技術の構築と活用に長らく携わりました。

それから約40年が経過し、多くの化学企業で各種製品開発にシミュレーションやデータ解析が利用されるようになっています。コンピュータの計算性能は格段に向上し、グラフィックスの進展により入力操作や結果表示は容易になり、誰もが手元にある計算環境で手軽に、理論計算やシミュレーションが実施できる状況になっています。しかし、研究開発の主役である実験化学者自らがこれらのツールを積極的に駆使しているとは言い難いのが現状であると感じております。

2.化学現象の理論的取扱いの難しさ
現在は、様々な分析手法や機器、さらに理論の発達により、多くの化学現象が電子・原子レベルで解明され、目的とする化学物質を設計することが可能になりつつあります。とは言っても、実際に製造プラント装置内、あるいは実験室レベルのフラスコ内で起こっている化学反応一つをとっても、系内の不均一性や予期せぬ不純物の存在なども含めた影響因子は複雑であり、理論的に取り扱えるミクロレベルの計算では限界があり、実験に先駆けた予測も限定的と言わざるを得ません。さらに、高分子材料や複合材料は構成する原子・分子レベルの状態が複雑で、隣接する分子鎖あるいは分子間の影響を強く受け、製造条件の微妙な違いによってその物質が持つ基本性能とは異なる特性が現れることが多く、予測や設計を困難にしています。

このような未だに解明されていない様々な化学現象や複雑な材料に対しても、新たな計算科学技術の開発が盛んに行われて来ており[4]、最近では、さらにプロセス技術や新たな計測技術の開発を連携させた取組み[5]もなされている。現状の計算技術の不完全さを理由に利用を諦めるのではなく、実験に先駆けて現時点で可能な理論やシミュレーションにより予測を試み、実験で得られた結果との違いを解明することで、理論の修正や新たな発見のきっかけにして行くことは有意義であろう。

3.材料開発分野でのMI活用のためのデータ蓄積
近年技術的に大きく進化し多くの分野への貢献が期待されるAIは、そのベースとなるデータの蓄積が鍵であり、様々な方面でデータプラットフォーム構築[6]が求められ、推進されている。化学・材料分野にAIを活用するマテリアルズ・インフォマティクス(MI)も今後は有効な武器となって行くであろうが、残念ながら、過去に蓄積されてきたデータや知識の量の関係から、現時点では材料開発へのMIの貢献は限定的であると言わざるを得ない。

これまでの化学物質や素材の開発では、目的とする機能に絞って検討して行くことが多く、特に開発初期段階においては、検討材料が持つ様々な性能を広く評価することは少ない。さらに、担当する研究者個人の経験や知見に依存して検討が進められることが比較的多いため、検討範囲が狭小化する傾向にある。従って、企業の材料開発において、様々な検討が精力的に進められているにも関わらず、想定される広いデータ空間の中の偏った領域での探索に留まり、残念ながら、他の目的にも適うデータが蓄積されるケースは少ない状況にある。
求められる機能が多様化した最近の少量多品種の製品・材料ニーズに対して、効率的かつスピーディに対応するためには、MI活用も意識した研究開発の進め方やデータ蓄積の仕方から再検討すべきではなかろう。データ評価基準の標準化、効率的な標準化データの取得方法(例えばハイスループットスクリーニング(HTS)など)、さらには、当初の目的に対しては失敗となる多くのネガティブデータの適切な知識化・データ化、などを進めることが有用であろう。

本年から、素材産業のイノベーションに向けたConnected Industries の取組み[7,8]が始まり、「協調領域におけるデータ連携の実現」、「実用化に向けたAI技術プラットフォームの構築」が進められつつある。また、物質・材料研究機構(NIMS)と化学企業4社の協働で2017年から進められている「マテリアルズ・オープンプラットフォーム[MOP]」[9]など、ここ数年、化学分野におけるMI活用を推進するための産官学連携の取組みが進められている。これらの取組みが、一時的なブームに終わることなく(国内で過去に進められた様々な化学系DB構築の取組み[10]への反省)、大きく今後に繋がる継続性のある仕組みが出来上がることを期待したい。

4.ITの基礎を身に着けた化学分野の人材育成
計算化学解析やシミュレーションが実験現場で活用されにくい理由は、実験化学者側にも原因があるように感じている。化学分野の研究者の多くが数学や物理に苦手意識を持っているようである。大学でも化学系の学科では、入試で数学や物理を必須にしていなかったり、大学で修得すべき単位にも組込んでいないケースがあり、数学や物理が基本となっている計算化学を敬遠する傾向が高い。さらに、統計学や実験計画法などを学習する機会も多くなく、どちらかと云うと経験に頼った試行錯誤的なアプローチが未だに尊重される傾向が強い。他方、電気や機械などの物理系の出身者が多い分野では、現場で日常的にITを活用した解析やシミュレーションが行われており、化学分野とは大きく異なる点である。

また、実験化学者が計算化学やシミュレーションを敬遠する要因として、教育の仕方や、教育する理論や情報の専門家側とのコミュニケーションの問題もあるように感じている。
しかしながら、研究開発の効率、スピードが今まで以上に問われるこれからの時代には、ITは日常的な武器として不可欠となり、これらを使いこなすための基礎の理解が必要となる。昨今の計算環境の利便性は高くなっており、利用する技術の仕組み(アルゴリズム)や前提(仮定)を理解しなくても、容易に使うことはできるが、ブラックボックス化したまま盲目的に利用することで、本来の目的から大きく乖離した結果が得られる危険性を孕んでいることを認識する必要がある。少し古い話になるが、某学会で、或る分子軌道法計算手法に用いられている近似法に欠陥がある(専門家には認識されていた)ことに本人は気付かず、その誤った近似法を使った計算値と実験値との傾向がたまたま一致した結果が報告された。座長からの「化学的な論拠としては無理があるのではないか」との質問に対して、報告した研究者が「計算機で得られた結果だから、これは正しい」と胸を張って答えていたことを思い出す。折角、技術が進化しても誤った使い方をしたのでは元も子もない。適切な教育、自らの学習を通じて、利用しているソフトウェア/データの不備を見抜く力を養い、賢い使い方をすることが肝要である。

最近、AIを活用する人材育成[3]が盛んで、各社毎に、また化学業界をあげた取組みも進められている。例えば、新化学技術推進協会(JACI)が、経済産業省の「未来の教室」実証事業として「化学×デジタル人材育成講座」[11]を開催予定である。統計学入門から、機械学習、総合演習、最前線までを7日間で学ぶ講座が毎年二回開催される。技術の本質を正しく理解した、次代を担う研究者が多く育ってくれることを期待している。

5.今後への期待
現在のモノづくりを担う化学企業(特に日本の化学企業)が今後どのように変わって行くのか。これまでは高品質の基幹材料が世の中から求められ、化学産業がそれを担う大きな存在であったが、時代は変わり、顧客から求まられる少量多品種の製品ニーズに速やかに対応することが必要となっている。さらに、世の中のニーズは、物質から情報に大きくパラダイムシフトしているように感じる。

このニーズの変化に対応するためには、よりスピーディに製品設計し、顧客ニーズを先回りした製品提案も視野に入れた対応が必要となろう。そのためにも、計算科学やAIなども含めた様々な技術が今まで以上に活用され、蓄積される化学産業の膨大な知識や経験が世の中のこれからの発展に大いに有効利用されて行くことを期待したい。

2019年6月18日

著 者:三戸 邦郎(さんのへ くにお)
出身企業:三井化学株式会社
略歴:医薬研究部で医薬品開発に従事後、研究開発部門での計算科学部署の立ち上げから従事し、計算化学技術の導入・活用、データベース構築などにより、農・医薬品、機能性有機材料、高分子材料などの各種新製品開発の設計・解析に関り、研究開発や知的財産などのマネージメント業務に従事。


【参考資料】
[1] 日本経済新聞記事:2019年6月3日「デジタル人材 初任給優遇」
[2] 文部科学省:人材育成に関する産官学コンソーシアム(第一回)資料3:経済産業省「AI人材育成の取組」(2019年1月28日)
[3] 未来投資会議 構造改革徹底推進会合「企業関連制度・産業構造改革・イノベーション」会合(雇用・人材)資料 (平成30年4月4日)
[4] OCTA, 商用版J-OCTA
[5] NEDO超先端材料超高速開発基盤技術プロジェクト
[6] 内閣府「2030年展望と改革タスクフォース」(2017年1月25日)
[7] 経済産業省 素材産業課「素材産業におけるイノベーションの役割と期待」(2018年1月)
[8] Connected Industries経済産業大臣懇談会資料「日本化学工業協会『Connected Industriesの取組 ~素材分野検討WGの議論を中心に~』」(2018年5月21日) 
[9] 国立研究開発法人 物質・材料研究機構と化学企業4社(三菱ケミカル、住友化学、旭化成、三井化学)の協働プロジェクト「マテリアルズ・オープンプラットフォーム[MOP]」(2017年)
[10] 千原秀昭「化学情報活動の今昔」, CICSJ Bulletin, 23(3), 106-111 (2005)
[11] 新化学技術推進協会(JACI)「化学×デジタル人材育成講座」


*コラムの内容は専門家個人の意見であり、IBLCとしての見解ではありません

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