専門家コラム

【026】転移癌治療に期待される標的型制癌剤

大津 晶

転移癌治療に期待される標的型制癌剤

癌化学治療の現況
 癌の化学療法には、増殖の盛んな細胞を無差別に攻撃する従来型の化学療法剤(シスプラチン等)、癌組織を特異的に攻撃するミサイル型制癌剤(ペルツズマブ等)、癌細胞の成長を促すホルモンと拮抗する薬剤(抗ホルモン剤:タモキシフェン等)等が次々に開発され、診断法の発展と相まって治療成績は年々向上している。癌が広範囲に転移してしまうともはや手術も放射線も治療手段とはならず、これら化学療法に治療の手をゆだねる以外に手がない現状である。しかしながら癌が広範に転移再発した患者に対して現状ではいかなる組み合わせでも延命させることがせいぜいで、癌化学療法はいまだ発展半ばといわざるをえない。

ミサイル型制癌剤とは
 がん細胞固有の細胞表面に出ている抗原を狙って結合したり、細胞増殖を促すアーム状タンパク質に結合して働きを阻害させたり、構造異常を起こさせて増殖をを遅延させたりする、癌細胞特異的結合抗体に従来型の化学療法剤が結合しているもの。癌細胞のDNA等に結合し正常細胞とも無差別に細胞分裂を阻害して死滅させる従来から使われている一連の化学療法剤とは一線を画する化学療法剤群。正常細胞を攻撃しにくく、癌細胞だけに発現している増殖の引き金となる物質を標的として攻撃するので副作用が一般の化学療法剤に比して少なく癌細胞を特異的に攻撃するので近年製薬会社各社で開発が著しい。化学療法剤が結合していない特異抗体のみの医薬品もある。標的となる癌細胞の目印を認識して結合し癌を治療するのでこれらを別名標的型制癌剤(分子標的薬)ともいう。免疫機能ブロック機能を有するがん細胞に発現しているPDL1という物質に直接結合してその働きを亡くし、患者の免疫細胞に癌を攻撃させる機能を復活させる薬剤も標的型制癌剤に含まれると考える。

ミサイル制癌剤の成功例とその限界
 現在最も成功を収めているのはErbBという乳癌細胞の成長を促す細胞表面に存在する成長促進をうながすアーム状タンパクに結合する抗体トラスツズマブである。この抗体はHer2という上記アームの1種に特異的に結合し乳癌細胞の増殖を抑える。本抗体に化学療法剤は結合していないが本抗体がHer2に結合するだけでHer2による細胞増殖作用が抑えられ抗腫瘍作用が発現する。
 2000年初期にわが国でも発売され、再発乳癌治療に幅広く使われるようになった。乳癌のすべてのタイプにこのHer2アームが発現しているわけではないが、この薬の開発で従来非常に予後が悪いとされていたHer2陽性乳癌の予後が飛躍的に改善されたとされている。
 しかし再発Her2 陽性乳癌(ステージ4:転移した癌が広範囲に広がっているもの)に対する治療成績はそれでも決して芳しいものではない。すべての転移癌が消えて臨床上治癒となる患者はほとんどいない。効果があったとしてもほとんど数年の延命後天に召される。原因はいろいろ考えられるががん細胞の変種であるHe2を持たない細胞が、癌細胞が分裂を繰り返すうちにいずれ現れること、ErbBにはHer1,Her3,Her4という別のアームも存在し、いずれも癌細胞成長促進作用を有しているためHer2のみ抑制しても作用が限局的ということもある。現在のHer2陽性乳癌標準治療はトラスツズマブと無差別殺傷型の従来型化学療法剤の併用を基本としているのもそのあたりに起因する。女性ホルモン感受性乳癌や、すべての増殖促進レセプターを発現していない乳癌は別の方法で治療する。

ホルモン制御型制癌剤
 厳密にいうとミサイル型制癌剤ではないが癌細胞の成長を促すホルモン受容体に拮抗するので乳癌のうち女性ホルモン受容体陽性癌や男性ホルモン感受性前立腺癌に使用される。性ホルモン拮抗剤は耐性が出てくるまでに比較的長い時間がかかるので、再発転移癌でも前立腺癌などでは他治療を施さなくても薬剤効果だけで症状が憎悪せず老衰まで存命する人もいるし再発乳癌ではこのクラスの癌が最も予後がよく長期生存や完全治癒も散見される。最近では耐性のできた癌に対する感受性を有する新しい化合物も開発されていて期待が持てる分野である。このクラスは合成化合物が多いのも特徴。

癌特異的抗原結合抗体と放射線の組み合わせ
 癌抗原に特異的に結合する抗体単独での治療では効果が不十分なことが多いので強力な殺細胞効果を有する放射線を併用しようとする考えは昔からあって、癌細胞が固有に持つ抗原に結合する特異抗体に強い放射線を出す線源を化学的に結合させ体内に注入するという発想での製品の開発は私が以前勤めていた会社でもやっていた。線源としては半減期が短くて放射線の非常に強い放射性物質の90イットリウムや131Iを使った。
 しかし事はそう簡単に行かない。体内でどうしても一定の放射線源が外れてしまい体内を循環し、健常部位にダメージを与えてしまう。また日常診療では施療する医療者を放射線暴露から保護しなくてはならないなど課題が多く残されている。しかしイットリウムを使用した医薬品は最近癌治療剤として上市されているので何らかの課題解決法が見つかったと誰何される。

免疫チェックポイント阻害剤
 抗PDL1抗体が脚光を浴びている。癌細胞には患者の免疫細胞からの攻撃を逃れる性質(耐性)を獲得したものがあってPDL1という物質を細胞表面に発現している。この物質があると免疫細胞は癌細胞を攻撃できない。抗PDL1抗体はここに結合してこの免疫反応に対する耐性をはずして人体に自然に備わっている免疫反応を復活させて癌細胞を殺してしまおうというもので現在脚光を浴びている。悪性黒色腫(ほくろの癌)の海外治験では目覚ましい効果があり現在では肺がんにも使用が拡大許可されている。
 しかしこの注目すべき制癌剤も実際の医療現場では悪性黒色腫患者でも効果は完全でない。肺がんでは効果発現はいまのところ2-3割といわれている。結局癌全体としてはこのメカニズムで免疫機構に耐性を獲得している癌ばかりではないのか患者の免疫能に個人差があるのかということに立ち戻る。

標的制癌剤全般が抱えている問題点
 癌には多様性がある。癌は個性である(つまり一人一人の癌はみな顔つきが違う)ということが叫ばれて久しい。癌の成長を促す特異抗原、成長を促すタンパク性アーム等の構造・働きについては長い間の研究から次第に明らかにされ、そこを特異的に攻撃またはブロックする標的制癌剤も陸続と開発されている。
 しかし今なお再発癌を根治せしめえないのはなぜであろうか。それは癌の無限増殖性が一つではない増殖シグナルで発現されているからではなかろうか。また、がんのヘテロジェニティーも(細胞一つ一つが別の癌)ある。一つの増殖シグナルで増殖している癌細胞群は当該シグナルを標的とする制癌剤で優れた抑制効果を示すことは間違いないだろうが、その癌細胞が死んでも、これに入れ替わってそうでない癌細胞集団が増殖してくる。結局のところそういうヘテロな癌細胞を次々と生み出している癌幹細胞(癌のもとになる癌になる直前の細胞)を殺す必要があると思われる。その幹細胞を見分けるシグナルとはなにか。癌治療に対する新知見の集積とともに診断技術の並行的な開発も急務なのである。
 さらに標的制癌剤は癌細胞固有の抗原、タンパク性アームに結合しているだけではないようである。正常細胞にも同様の抗原、タンパク性アームを有するものがあり副作用発来のもととなっている。この問題(正常細胞もやられる)は従来型化学療法剤の一大課題であったけれども標的型医薬品が出てきてもその課題が完全に解決されない所に人体の複雑さが見て取れる。

医療費の問題
 近年陸続と開発上市される標的型制癌剤は開発に長い時間とコストがかかっている。従って薬価(薬の値段)は極めて高額であることが多い。高額医療費補助制度があるとは言っても、結局残りの医療費は国や自治体が負担することになり、高齢者社会を迎えて無配慮にこれらの標的型制癌剤を患者に投与すれば早晩に医療費が破たんするのは目に見えている。患者の中にもこの薬で可能と事前診断されても癌の詳細プロファイルや患者状態によっては効果が期待できない人がいる。ベッドサイドでの迅速全プロファイル診断システムの開発も急務と思われる。投与予定の薬が当該患者に効くか効かないかがベッドサイドでわかる日が来るのは何時の事だろうか。癌治療とは診断システムの発展と抱き合わせということが本質と捉えたい。

標的型制癌剤の未来
 癌には多様性があり、また一つの癌細胞が分裂して増えた癌細胞集団でさえ細胞増殖の引き金を引くシステムには増殖とともに多様性が出てくる。そのため一つの薬剤でこれを完全制御できる可能性は低いと考える。肺炎ワクチンは、多種多様に存在する肺炎菌株のうちどの肺炎株が流行するかわからないので多くの肺炎球菌抗原のカクテルである。これとおなじように癌治療においても複数の適応可能な標的制癌剤のカクテルを投与できるようにすることがより効果を確実にする一つの考え方と思われるが、個々の薬剤が有する副作用をどう抑えるかという医療技術の発展もなければこういう応用は期待しえないのである。
 また細胞表現抗原は分化の過程で消失しやすいので迅速診断システムで抗原が発現しているか否かをチェックする技術開発も重要である。究極的には白血病にしろ癌細胞にしろ、病気の大元は癌化した細胞を次々に生み出す癌幹細胞(前出)なのでいかにこれを検出し打ち倒すか、その道を探すことこそ再発癌根治への道である。癌幹細胞にも必ず癌細胞を次々に生み出す所以の正常細胞とは異なる、固有の細胞構造があり、これらを標的として極めて有効に攻撃する薬剤の開発が近いうちに成し遂げられ、臨床現場に供されることを期待してやまない。

2016年3月7日

著者:大津 晶(おおつ あきら)
出身企業:医薬品の製造販売会社
略歴:最初の会社で医薬品の研究、開発、品質管理、薬事申請を担当。次の会社で薬事責任者として当時日本申請経験のない会社の製品の上市に貢献いたしました。薬事経験が長いので、得意分野は薬機法の詳細、医薬品の品質管理、豊富な医薬品知識。主としてバイオ医薬品の薬事申請を担当していたので、モノクローナル抗体を標的制癌剤種とした医薬品の知識が豊富である。
資格等:博士号(薬学)、薬剤師



*コラムの内容は専門家個人の意見であり、IBLCとしての見解ではありません

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